10月17日バンクーバーで行われた高嶋伸欣氏(琉球大学名誉教授)の講演に出て、高嶋氏にインタビューもしてまとめたレポート、地元のライター原京子さんによるものです。
原 京子
琉球大学名誉教授である高嶋氏は、元高校社会科教員としての経験を生かし、教科書執筆や教員養成に取り組むと共に、40年以上もの間、戦争の傷痕に学ぶマレーシア/シンガポールの旅を主催、日本軍占領時代の歴史や戦争の記憶の調査研究や出版にも関わってきた方である。
講演会では、40年に渡り東南アジアを訪れる中で、高嶋氏が人々と分かち合ってきた経験を伝えていただいた。会場には、中国各地、韓国、シンガポール、マレーシア、フィリピン、先住民、日系人、そしてヨーロッパ系カナダ人ら100人余が参加し、それぞれの立場から今後の自分自身の歩み方について、前向きに考える貴重な時となった。
講演会の報告とともに、高嶋伸欣さんがこれまで歩んでこられた人生について、レポートさせていただこうと思う。そこには、教員として、歴史家として、そして人間の生き方として、私たちの学ぶべきものが多くあるからである。
Ⅰ 社会科教員としての歩み
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1910年 高嶋氏の父、高島信太郎と妻ハナ
(パスポート写真) |
1942年4月、太平洋戦争が始まって数か月の時に東京・杉並に生まれた。幼かった高嶋氏自身には、辛い戦争の記憶はあまりない。父親はバンクーバー郊外のリッチモンド市ステイーブストンの日本語学校の初代校長として文部省から派遣され、1910年12月から10年間をカナダで過ごしている。バンクーバーは、高嶋氏にとって特別な思いのある場所だったそうである。(今回の来加時に、高嶋ご夫妻は現在も存続しているステイーブストン日本語学校を訪問された。)
大学時代、地理学を専攻していた高嶋氏は日本全国を旅して回った。九州から北海道まで、各地を見聞した。農村の人々と話す機会もあり、戦後に海外の植民地から引きあげてきて農業を営んでいる人たちに出会った。この人たちは、急斜面や泥炭地など普通は農地にしないような場所で農業をしていかなければならない状況にあった。「日本の社会にこんな苦しんでいる人がいるのだということを、社会の授業では聞いたことがなかった。そういう勉強ができる場を作りたいと思いました」。こうして高嶋氏は、社会科の教員への道を歩み出すことになる。
大学院在学中から、正しいと信じたことはとことん主張した。相手がたとえ教授であっても妥協せず、納得のいくまで議論を重ねて真実を追及した。そんな高嶋氏の気骨ある精神が評価され、東京教育大学(現・筑波大学)付属高等学校の社会科教員に採用される。
主体性を持ってユニークな教育を行っていた社会科教員のグループの中に入り、“教科書通りの授業をしない”という方針のもと、充実した授業作りに専念した。
教科書を使わず独自のプリントを使う授業をする中で、生徒の中から“自分の都合のいいところだけを取り出して教えているのじゃないか?抜き出している部分の前後を見せてほしい”という厳しい要望が出たことがあった。納得してもらうためには、さらに勉強し生徒を納得させる“証拠”を示していかなければならない。すべての授業が真剣勝負である。「権威ある学者が言っているから、とか、教科書に載っているからではだめなのです。自分の頭で考えて納得してもらえる授業作りをしなければなりません」。30年もの社会科教師としての経験は、高嶋氏を知る上では切り離せないものである。「歴史というのは、年号を覚えるだけじゃない。そこにどんな人がいたか、どうしてそうなったか、それがどんな意味もつのか、それを考えることで歴史が立体的に見えてくるのです」。そして、そこからまた現在の私たちの進むべき道も見えてくるのである。
Ⅱ 東南アジアとの関わり
東南アジアのイメージがどんなものか、生徒からアンケートをとったことがある。経済的に貧しい、犯罪が多い、不衛生、文化水準が低いなど、大人のアジア観がそのまま映し出されていた。”能力的にも日本は優秀だ“という間違った思い上がりをなんとかしなくてはならないと思ったが、いきなりそのことを言っても答案やレポートで要領よく答えるだけで、解決にはならない。どうしたらわかってもらえるだろうかと考えていた。
1975年、東南アジア訪問の機会がやってきた。兄がバンコク(タイ)の大使館に赴任し、そこを夏休みに訪ねた。バンコクから国際列車でマレーシアに行き、授業の教材とするスズ鉱山やゴム園などの写真を撮るのが目的だった。
食堂に入り食事を頼んでいると、ひとりの人が近づいてきて「日本人か?」と尋ねる。そうだと答えると、「このあたりで、日本人が住民を殺したのを知っているか?」と言う。そういうことはありうるだろうと思いながらも、「知りません」と言うと、その人が街中の追悼碑に連れて行ってくれた。文字の拾い読みだったが、確かに日本兵が虐殺を行ったいきさつの記されている追悼碑であった。
日本に帰国して調べてみたが、資料がまったくない。当時、東南アジアの日本軍の戦跡を扱っていた研究者や記者は、ほとんどいない状態だった。「これは、自分で調べるしかないと思いました」。この時から、高嶋氏の毎夏の東南アジアの訪問がはじまった。
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2014年8月15日、クアラルンプール市内の追悼式で |
初期の頃は、レンタカーを借りてひとつひとつ墓地を訪ね、虐殺のあった現場にも一人で行くことが多かった。「なぜ日本人がここに来たのか?」と責められ、石を投げられたこともある。しかし、「日本人の中にもこういう人がいるのだから」と守ってくれる現地の人もいた。訪問を続けていく中で、「学校教師として、日本の侵略の事実を日本の生徒たちに正しく伝えたい」ということが少しずつ理解してもらえるようになり、情報集めに協力してくれる人が現れてきた。現地の若い新聞記者たちの中にも、「日本人がやっているのだから、地元の我々自身が調べていくべきだ」という動きが出てきて調査が進むようになり、現在ではマレー半島、シンガポール、東マレーシア(ボルネオ島)の各地で、日本軍による住民虐殺の追悼碑・墓地が70か所以上も確認されている。
日本人の教員仲間からも、一緒にやろうという人が出てきた。1982年には、教科書検定で日本軍の“侵略”を”進出“に書きかえさせたという出来事があり、中国や韓国からの抗議が強く起こっていた。「このことに関しては、我々ひとりひとりにも責任がある。間違った教育はしないで、教科書に書いてある無しに関わらず、真実を伝えていこう」という教員仲間らが集まり、1983年から“東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅”を始めることになった。第1回目には、30名以上の参加者があった。このツアーは、今年の夏で41回目を迎えた。
Ⅲ 講演会「和解に向けて」より
10月17日の講演会では、高嶋伸欣氏のこれまでの調査結果や経験が紹介された。語りつくせない中からのほんの一部であるに違いないが、たいへん印象深いものであった。
*歴史修正主義に対抗していくには
戦後の日本は、憲法により二度と戦争はしない国になったと説明をしているが、近隣諸国では、“日本には軍国主義が残っている”という警戒心を持ち続けていることを、東南アジアに行くと痛感する。日の丸、軍旗、靖国神社などは、辛い戦争の記憶を思い起こさせるものであることに、日本人自身は気づいていない。
シンガポールのリー・クワンユー首相は、1990年の講演の中で「日本の社会の指導者たちが戦争を知らない世代にすっかり入れ替わった時には、再び軍事力を強化する国になるだろう」と予測して、世界中に注意を呼びかけた。
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シンガポールの新聞『聯合早報』に載った リー・クワンユー首相の言葉 |
現在、その予測通りのことが起きているが、日本国内ではそのように世界から見られていることに、ほとんど気づいていない。
日本軍が戦争中にどのような加害行為をしたか、マスコミや歴史教育で伝えてこなかったことがひとつの原因。また、歴史的な事実を歪めたり隠したりする「歴史修正主義」が、一部の政治家やマスコミによって力を持ってしまっていることも大きい。1983年からは教員や関心のある一般の人・高校生から参加者を募って、“東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅”を始めることになった。こうした歴史的事実の歪曲や隠蔽に対しては、ひとつひとつ調査を重ねていき証拠を挙げていくことが必要なのである。
*誤った歴史の認識
太平洋戦争は、真珠湾で始まったと一般に認識されているが、実はマレー半島から始まっている。
日本軍の真の目的は、石油・鉄鉱石などの資源をもつ東南アジアを手に入れること。そのための侵略戦争であった。真珠湾奇襲の前に、マレー半島のコタバルで開戦していたことは、歴史家の間では認められている事実である。東南アジア占領を邪魔するアメリカ海軍の根拠地である真珠湾を奇襲したにすぎないが、そこから開戦したように言われているために、太平洋戦争の目的が本当は東南アジアの侵略であったという事実を、見落としてしまいやすくなっている。
現在の日本の歴史教科書には、マレー半島から侵略を開始した日本軍による加害の事実が具体的に記述され、住民虐殺の追悼碑の写真も掲載されるようになった。真珠湾攻撃よりもマレー半島での戦闘開始が早かったことも、大半の教科書に記載されている。少しずつ歴史の事実が伝えられてきているが、高嶋氏らがこれらの事実を指摘し始めてから正確な記述がなされるまでに、30年以上の時間を要した。(高嶋氏は、政治力に左右される教科書検定制度に違法性があるとして、1993年に文部大臣を被告とする教科書裁判もおこしている。)
*日本軍の行った虐殺の証拠
日本軍は“敵性華僑狩り”(Hunting of Enemy Chinese)という軍事作戦をシンガポール・マレー半島で行っていた。「人目につきにくい場所にいるすべての中国系住民を(女性・子供・老人も含めて)その場で殺害せよ」というものである。明らかに国際法(ハーグ陸戦条約・1907年)違反である。
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広島の陸軍歩兵第5師団第一大隊第7中隊の公式記録 『陣中日誌』 |
高嶋氏らは、これらの虐殺が軍の公式命令によるものであった証拠を1987年に日本で発見した。広島の陸軍歩兵第5師団第一大隊第7中隊の公式記録『陣中日誌』である。この中に、日本軍が毎日行っていた虐殺の様子が、具体的かつ明確に記述されていた。
現在では、東南アジアでの日本軍による住民虐殺を、歴史修正主義者でも否定することはできなくなっている。
*和解に向けて
長年に及ぶ高嶋伸欣氏らの地道な働きにより、埋もれていた歴史が堀り起こされ、また加害者として認識されていた日本人と現地の人々との間に信頼関係が築き上げられてきたことは特筆に値する。
・スンガイルイ(Sungai Lui)集団墓
1942年8月、マレーシア・ネグリセビラン州の田舎町スンガイルイに突然日本兵が現れ、村人を集め、中国系住民だけを並ばせて機関銃で撃ち殺すという事件があった。その後長く密林化していた犠牲者368人の墓が、1984年に見つかった。
戦時下の日本軍は、中国系、マレー系、インド系の住民を互いに反目させる民族分断策をとっていたため、そのしこりがマレーシアには今でも残っているという。スンガイルイ墓地を訪れる中国系の人々を、現地のマレー系農民が嫌い、一時は警察が常駐するほどの険悪な事態にまで及んだ。しかし、マレー系の村長・ムヒデイン氏が「民族や宗教は違っても死者を葬る墓の尊厳に変わりはない」と住民を説得し、墓のある土地を墓地公園用地として譲ってあげようということになった。ムヒデイン氏は、16歳の時に、駅前広場で中国系住民が虐殺されるのを目撃しており、高嶋氏らにその体験を涙を流しながら語ってくれた人だという。
墓地の整備にあたり、日本国内にも「加害者側の日本人として償いたい」と呼びかけたところ、個人や団体から寄付が寄せられた。事件の加害者であった日本側からの寄付の申し出は、断られることも予想されたが、中国系の村長・林氏は「喜んで受ける」と言ってくれて、和解と協力のもと、現在スンガルイ集団墓はきれいに整備され守られている。
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橋本和正さん家族と、スンガイ・ルイの林村長(右)
2015年8月(写真提供:鈴木晶) |
・橋本和正(はしもと かずまさ)さんのマレーシア訪問
スンガイルイ虐殺の日本軍指揮官で、戦後に戦犯として処刑された橋本忠少尉の甥・橋本和正さんが、2012年8月第38回目のマレーシア・ツアーに広島から参加した。甥として戦争責任を忘れられないと追悼行事に参加したが、どんな仕打ちを受けるかと心配もしていた。ところが、「辛い立場であるのに、よく来てくれた」と歓迎され、「この事実をきちんと語り継いでいって欲しい」という林金發村長と固い握手を交わした。3年後の今年に、橋本さんはご家族と共に再びツアーに参加しスンガイルイを訪問している。
・被爆者沼田鈴子さんのマレーシア訪問
広島在住の沼田鈴子さんは、1989年のツアーに参加した。ご自身が被爆者であり、建物の下敷きとなって片足を失っている。「原爆投下の3年前に、地元広島の部隊が行ったマレーシアでの行為を知り、被爆者としてでなく、加害者として謝りたかった」という沼田さんの現地でのスピーチに、そこに集まっていた参加者全員が総立ちになり駆け寄って歓迎するという、感動の場面に高嶋氏は立ち会った。(沼田さんのマレーシア訪問についての詳細はこちらへ)
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沼田鈴子さん |
Ⅳ 高嶋伸欣先生から学んだこと
今回、高嶋伸欣氏のお話しをうかがい、改めて痛感させられたのは、“正しい歴史を学ぶことの大切さ”である。
私自身、自分の受けた教育の中では日本の戦争責任について学んだ記憶がない。私事であるが、私の夫は在日朝鮮人であり、結婚するにあたり夫の家族から「日本人だから」という理由で猛反対を受けた。はじめは、なぜ日本人だという理由で反対されるのかと憤りを感じたりもしたが、そこで初めて自分で歴史を勉強してみて愕然とした。日本軍の犯した過ちにより、どれほどの痛み苦しみが現在にまで残されているのかを知り、日本人として打ちのめされる思いだった。ショックではあったが、そのことを踏まえて、時間をかけて少しずつお互いの人間関係を作り上げていくことにより、今は亡き義父・義母と、とても良い関係を作り上げることができたと思っている。まず、事実を知り、受け止めることが第一歩なのだと思わされる。
日本の中にいると、他国の歴史に気を遣わずに済まされてしまうことが多い。今回講演会の行われたバンクーバーは、多民族が共存する多文化都市であり、講演会会場にも様々なバックグラウンドの参加者がいた。被害者である中国系の参加者、加害者である日系の参加者が、隣同士に座っているということが起こる。それが、当たり前の光景なのである。
一歩日本という国の外に出れば、私たちは嫌でも“日本人”としての看板を下げなければならない。日本人としての歴史について、「知りませんでした」では済まされない場面に出会うことも多い。公園のベンチに座っていて、たまたま隣に腰かけていた中国系のご婦人に、「あなた、昔、中国で日本人が何をしたか知っている?」と問われる、ということが実際に起こる。こんな時に、歴史を知っていて対応できるか否かで、本当に大きな違いがある。
国際化が叫ばれる現在、日本人として自国の歴史に無頓着ではいられない。“知らない”ということは、時に人を傷つけ、亀裂を深めることになる。”知らない“ということは、大変無責任で恥ずべきことだと思う。
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帰国時バンクーバー空港で
高嶋伸欣・道夫妻 |
また、今回高嶋氏から教えていただいたのは、「和解はできる!」という希望のメッセージだった。長年に及ぶ地道な働きの中で、高嶋氏が積み上げてきた地元の方々との信頼関係は、胸に迫るものがあった。気の遠くなるような、丹念な誠実な作業の積み重ねであったに違いない。高嶋伸欣氏らの誠意と努力がしっかりと受け止められているということは、私たちにとって大きな希望である。信念をもって歩まれている高嶋氏の人生から、多くを学ばせていただいた。
「反日」なる言葉が氾濫している昨今である。日本に都合の悪いことを指摘する人を、すべて「反日」とする傾向である。過去の過ちに蓋をして、日本があたかも非の打ちどころのない国とすることが果たして「愛国」なのだろうか?
ネット上で高嶋氏を「反日」と呼ぶ投稿を見る。日本軍の傷痕を、真実を掘り起こすことによって、このようにして、現地の人々との信頼関係を築きあげ、“日本”というかつて加害者であった国への恨みを和らげ、日本人の悪いイメージを改善させてきた高嶋氏を「反日」と呼ぶのは大きな間違いである。
真の「愛国者」であるのなら、正しい歴史を受け止め、その上で日本という国の価値を高める努力をするべきではないか。間違った愛国、間違った歴史認識は、ますます日本の評価をおとしめることになる。高嶋氏たちのような誠実な働きの積み重ねこそが、「日本」という国を草の根から再認識・再評価されるように動かす力なのだと感じる。
現在の歴史修正主義の横行、日本政府の方針は、「日本人としての責任問題である」と、高嶋氏は指摘する。私たちひとりひとりが日本人としての自覚を持ち、自分たちの歴史に責任を持たなければならないことを痛感させられた。そして、各自が新たなる一歩を踏み出さなければならない。
最後に、遠く日本からバンクーバーまで足を運び、私たちに力強いメッセージを届けてくださった高嶋伸欣先生、志をもった教員の方々が作り上げられた素晴らしい教科書・『ともに学ぶ人間の歴史』(学び舎発行)をご紹介くださったおつれあいの高嶋道先生、今回の企画を主催してくださったアジア太平洋戦争終結70周年バンク―バー実行委員会の皆様とピース・フィロソフィー・センターの乗松聡子さんに、心から感謝いたします。
はら・きょうこ
フリーランス・ライター。神奈川県出身。1990年、在日コリアンの夫と結婚。1994年、渡加。現在は、バンクーバー郊外に在住。異文化の中での5人の子供の子育ての経験を通して、主婦として母としての視点から、情報を発信。バンクーバー九条の会・会員。平和を考える会「White Rock の会」・共同主催
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